れきし屋台

歴史の面白い話や意外な話とかのお品書きです!

「え!?先生マジっすか?」勝海舟ってこんな人!!

■初めに

 こんばんは!れきし屋台です!

 

どの幕末の有名人の話にもどこかしらに名前が出てくる勝海舟

黒船来航以前に列強の技術力に危機感を抱く先見の明の持ち主であり、幕臣なので本来敵対するはずの坂本龍馬西郷隆盛に影響を与える異色の立ち位置にいた人物です。

 

諸説あるので一説での話になりますが、将軍や江戸の町の為に奔走した勝海舟の人生の軌跡をざっくりと振り返り、意外なエピソードや面白い逸話を紹介します!

 

勝海舟の人生って??(ざっくり)

誕生~9歳「トラウマ刻まれちゃったぜぃ・・」

文政6年(1823年)に旗本(将軍に御目見得できる身分)の家に生まれる。

旗本ではあったが貧しく生活は楽ではなかったが父親の人柄もあり人脈は広く、後に勝が切り札にした「焦土作戦」の際の人脈はこう言った繋がりがあったからなのかもしれません。

そして勝海舟の人生最初のビッグイベントとも言える狂犬病の野犬に襲われ生死の境をさまよいます。その時のトラウマから生涯犬嫌いとなります。(詳細後述)

 

10歳~28歳「剣術なんかしてる場合じゃねぇ!」

野犬襲撃からも無事生還した勝は剣術、禅などの修行や蘭学(オランダを通して日本に入ってきたヨーロッパの学術や技術)に励みます。

25歳の時には蘭学辞典『ドゥーフ・ハルマ』を年10両(現代の120~130万円くらい)でレンタルして1年かけて写本を2部制作。1部は自分用、もう1部は売ったそうですがレンタル代の3倍以上で金額で売れたらしいです。

 

蘭学を勉強する中で、阿片戦争後の衰退していく清国の情勢を知り「国力上げなきゃヤベぇじゃん」と考えた勝は私塾を開き蘭学兵学を教え始めます。幕府を震撼させた黒船来航の3年前から列強の脅威に備え始めた行動力と先見性は流石の勝クオリティです。

 

29歳~39歳「船の揺れは苦手でぃ・・・」

黒船来航で思春期の男子中学生の恋心並みに揺れに揺れた幕府は身分問わず様々な意見を募集します。そこで勝の「海軍作って国防しないとダメなんじゃねぇの?」との具体的な意見が注目を集め一気に役職者へとランクアップし幕政に参加します。

それからは蘭学や航海術の教育機関長崎海軍伝習所」に入門し5年間長崎で過ごし、この期間に当時の薩摩藩主である島津斉彬からも認められ薩摩とのパイプが出来たようです。

伝習所では知識面では問題がないものの、思いっきり船酔いするタイプだったらしく船の上ではポンコツだったなんて話もあります。

その後、通訳にジョン万次郎をたて視察で渡米します・・がやっぱり船上ではポンコツだったみたいです。誰にだって苦手の一つはありますよね。(あ、勝先生、犬もダメだった・・)

ちなみに視察報告の際に上官を爆ギレさせますが後述で。

 

40歳~46歳「覚悟決めてやるぜぃ!」

神戸海軍操練所設立や海軍塾を開くなど海軍興隆に奔走する勝だったが保守派の圧力や幕府内での孤立から立場が徐々に悪くなり最終的に軍艦奉行の役職を罷免(クビ)されてしまう。以降、大政奉還までは目立った動きしない勝だったが、鳥羽伏見で大敗した将軍慶喜に頼られ本気の本気を出します。

 

将軍の命を守る!江戸の民も守る!

イギリスの代表パークスに根回しをして慶喜に手を出させないようにしたり、イケイケの倒幕派を抑える為、いざと言うときは町に火を放つ捨て身の切り札「焦土作戦」を新門辰五郎らに強力を仰いで準備するなど、この時の勝海舟は決死の覚悟で西郷隆盛との会談に挑んでいたのだと思います。

結果、話はまとまり無血開城は成され慶喜も江戸の町も守り抜きました。この時の心中はどうだったのでしょうね?「うわぁ、マジ疲れた…ビール飲みてぇ」とか思ってたら面白いですね。

 

晩年は・・・

明治維新後は様々な役職を歴任するも反りが合わなかったのか辞退や短期間だけ務めたりと明治政府には深くか変わっていません。

勝海舟は脳溢血で亡くなりますが、最後の言葉はブランデーを飲み「コレデオシマイ」だったそうです。なんとも勝海舟らしい結びですね。

 

 

駆け足でしたが、勝海舟のざっくりとした軌跡でした。次に本題!(遅い?)意外な話や面白エピソードを紹介します!

 

勝海舟の意外なエピソード!!

1.犬が大嫌い

前述の幼少期に野犬に股間を噛まれ生死の境をさまようトラウマを刻まれましたが、この時に勝さんはお玉様を一つ失っています。
野犬が袴に潜り込んでガブりといかれたらしく想像するとホラーですね。
勝さんの父親は毎晩水垢離(神に祈る前に水をざっぱーん!するやつです)し回復を祈ったそうです。

 

2.アメリカ視察の報告で超怒られた

サンフランシスコ視察について「特に変わったことはありませんでした」と報告し「そんなことないでしょう?」と食い下がられアメリカは民間も政治も賢い人でした、そこのところは我が国と逆ですね!!」と言い放ち上司に超怒られたそうです。皮肉にしても言い過ぎと思いますが、当時給料の低さに拗ねてたって話もあるので勢い余って言っちゃったのかな?とも思います。
また、渡米の船内では船酔いで自室に引きこもってたとか・・・時代の荒波に乗る勝さんも海の波には弱かったんですね。

 

3.おニューの船に我慢できなくて遭難しかけた

長崎海軍伝習所の時代に出来上がったばかりのコットル船に乗りたくて堪らなくなった勝さんは教官が「天気悪いからやめた方がいいよ~」と忠告を聞かずに遠洋航海を決行。見事にフラグを回収して天候は大荒れ、船底に穴が開いて転覆しかけたそうです。無事に戻ることはできましたが、この時沈んでたら歴史が変わってました。勝さん、もう少し慎重に動いてください・・

 

 4.女好き??現代ではありえない家庭

23歳で正妻の民さんと結婚している勝さんですが、浮気に次ぐ浮気で妾(正妻ではない妻)が5人もいたそうです。伝習所時代に当時14歳のお久さん(驚愕・・)、浮気次期はバラバラですが使用人の糸さん、かねさん、米さん(どんだけ手つけるんだよ)、近所の旧幕臣の娘のとよさん(近所て・・)。
これだけでも「勝さん何やってんスか」となりますが、正妻と妾と一緒の家で暮らしていたそうです。everyday修羅場になりそうなものですが意外と穏やかだったらしく勝さんも「俺んとこは妻妾同居しても揉め事なしさぁ」なんて自慢してたみたいです。民さんの我慢があってこそだったような気もしますね。

 

 5.やっぱり妻に愛想つかされてた

妾との間に子供を作ったり、「ちょっと品川言ってくる」と嘘をついて渡米したり、とにかく破天荒な勝さんについていった民さんですが愛情からなのかは疑問が残ります。勝さんの最後の言葉は「コレデオシマイ」、その6年後に民さんも亡くなりますが最後の言葉は「勝といっしょの墓に入れないで」でした。真偽のほど本人にしかわかりません。ですが現代の感覚でいくと確かにそれだけ言われても仕方ないなぁ・・とは思います。

 

■最後に 

如何でしたか?早くから世界に目を向け多くの人達に影響を与えた勝海舟は幕末のインフルエンサーと言える人物だったのではないでしょうか。

 

視点にもよりますが、主人公と言うより名脇役のポジションから無血開城でいきなり主人公っぽくなる展開もドラマチックで良いですね!

女性関係はちょっとアレな気がしますが、それも反面教師として現代に影響を与えてくれているんだと思います。(きっと・・)

 

全然関係ありませんが、 勝海舟『人の一生には、炎の時と灰の時があり、灰の時は何をやっても上手くいかない。そんなときには何もやらぬのが一番いい。ところが小心者に限って何かをやらかして失敗する。』と言葉を残しています。

浮き沈みのある人生、落ち込んだ時にこの言葉に救われたことがあります。

 

勝海舟のエピソードが皆さんの話の種になれば幸いです。それではまた!


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「え!?坂本さんマジっすか?」坂本龍馬ってこんな人!!

■初めに

こんばんは!れきし屋台です!

 

坂本龍馬をご存じですか?なんて聞くの野暮な程の知名度を誇る幕末のスーパースター。

大河ドラマになったり、アニメやマンガのキャラクターでも登場したりと坂本龍馬の人気は言うまでもないと思いますが、有名なエピソードは割りと人生の後半に偏っていることや「え!?」と感じる癖や逸話についてはあまりフォーカスされていません。 

 

諸説あるので一説の話になりますが、幕末を駆け抜けた英雄、坂本龍馬の人生の軌跡をざっくりと振り返り、意外なエピソードを紹介します!

 

坂本龍馬の人生って??(ざっくり)

 

誕生~18歳「退学になったぜよ!」

天保6年(1836年)に土佐藩郷士の家に生まれる。入学した楠山塾では優しい性格からいじめに遭い最後は抜刀騒ぎを起こして退塾。

 

19歳~「剣術習いに江戸行ってみたら衝撃受けたぜよ・・・」

北辰一刀流の千葉道場に入門。同年にペリー率いる黒船が来航する。緊急で守備任務に召集された中で黒船を見て「うっそ・・ヤバくね?黒船凄すぎぜよ・・」と衝撃を受け、海外に目を向けるきっかけになった。

 

27歳~「そうぜよ、勝海舟やっちゃおう」

土佐勤王党に加盟したものの過激さについていけなくなり脱藩。その後、尊皇攘夷(天皇大事なので異人はぶっ飛ばします)派だった龍馬は「ぶっ飛ばすぜよ!」と幕府サイドの勝海舟に対峙するも勝の海軍を作り国防を果たそうとしている考えに感銘して「弟子にしてもらっていいスか?」と結果は真逆になった。

弟子になった龍馬は気合いの金策で神戸海軍操練所の設立に貢献した。

30歳~「も~仲良くするぜよぉ~」

帰国命令をシカトして神戸海軍操練所を設立に貢献するも勝が海軍奉行を罷免(いわゆるクビ)され薩摩藩に保護される。薩摩の援助を受け亀山社中(後の海援隊)を設立。

当時やんちゃし過ぎて敵だらけになった長洲と関係が良くなかった薩摩の仲を取り持とうと会談をセッティングするも薩摩の西郷隆盛がドタキャンして失敗。

「ダメぜよ、あいつら仲良くしないぜよ・・」と思った龍馬は亀山社中を使い双方の利害関係を一致させ薩長同盟を結ぶことに成功する。

 

33歳、非情な運命・・・

薩長同盟で倒幕の流れが強くなる中で亀山社中を改称した海援隊大政奉還を進言するために出港。船中で「今後の日本について超良いアイディアがあるんぜよ!」と五ヶ条の御誓文の元にもなったと言われる船中八策を策定する。

大政奉還を成され、いよいよ時代が動く!そんな矢先の慶応3年(1867年)、33歳で暗殺により生涯の幕を閉じる。

 

駆け足でしたが、坂本龍馬のざっくりとした軌跡でした。次に本題!(遅い?)あまり登場しないエピソードの紹介です!

 

坂本龍馬の意外なエピソード

 

1.実は勝海舟を斬るつもりで会いに行ってない??

龍馬が勝を斬り行き、説得され弟子になったと言われていますが、これは勝海舟が後に語ったことがソースになってるようです。

「本人がいってるんだから・・」と思うところはありますが勝海舟は割りと話を盛るタイプだったとも言われています。真相は当人にしか分かりませんね。

 

2.地球半周してる?!

坂本龍馬の船での移動距離はざっくり21,000kmで約地球半周分にもなるそうです。陸路の移動も合わせると地球一周分移動していとも言われています。神戸海軍操練所設立の金策薩長同盟の為に日本を駆け回った龍馬なら納得の距離かと思います。

 

3.子供の頃のあだ名はアザ(痣)

痣は殴られたときの痛々しいやつではなくホクロのことで、妻のお龍も龍馬の眉間には大きなイボがあり顔にもホクロがたくさんあったことを語っているそうです。遠縁の武市半平太とはアギ(顎)、アザ(痣)と呼び会う仲。

つまり、龍馬「おい、四角顔」半平太「なんだ?ブツブツ」ってことですね。他にも窮屈、法螺(ホラ)と呼びあってたとも言われているみたいです。龍馬「おい、偏屈石頭」半平太「なんだ?話し盛り野郎」みたいな感じですかね?取り敢えず仲良いですね。

 

4.半平太の家いったら取り敢えず立ちションする!!

13歳までおねしょが治らなかったなんて話もある龍馬には悪癖があったそうです。

それは武市半平太の家に遊びに行く度に玄関先に立ちションしてたそうです。(庭って話もあるみたいです)

半平太の奥さんは当然困る訳で「ぺーたさん、あの立ちション止めさせてよ!」と半平太に訴えたそうですが「まぁ、龍馬だからしゃーないでしょ(笑)」とスルーされたそうです。でも「したいならトイレいけよ」くらいは思ってたかもしれませんね。

 

5.日本初と言われることが多い!!

着物にブーツを履くなど常に新しいモノを取り入れる坂本龍馬ですが、日本で初めての○○した、みたいな逸話がいくつかあります。ブーツについても日本で最初に履いたのは龍馬だそうです。

他には、水虫になった日本人第一号、日本で初めてハネムーンに行った人、日本初の株式会社を設立したなんかもあります。

 

・水虫はブーツで蒸れたのと、あまりお風呂に入らなかった人らしく結果水虫になったそうですが、ちょっと眉唾かな?と個人的に思います。

・ハネムーンは寺田屋で襲撃を受け、応戦するも大怪我を負った龍馬はお龍と療養も兼ねて鹿児島に旅行したのが日本初のハネムーンと言われているそうです。

・前述の亀山社中西郷隆盛他に出資してもらって創った日本初の株式会社と言われています。

 

6.海援隊は三菱の元になった?!

明治になり海援隊は解体されましたが、元メンバーの岩崎弥太郎(海援隊の会計担当)が九十九商会を設立し、現在の三菱へと繋がっていくそうです。土佐藩主、山内容堂の家紋「三つ柏」に岩崎家の家紋「三階菱」を重ねたものが三菱の「スリーダイヤマーク」になったと言われています。

 

7.キリンビールのロゴは龍馬?!

キリンビール岩崎弥太郎トーマス・グラバーが出会ったことで生まれたビールだそうです。この二人を引き合わせたのが坂本龍馬であったことから麒麟のマークは龍と馬を表すような構図になってるようです。

 

■龍馬の関係する女性のエピソード

せっかくなので坂本龍馬に関わりの深い女性を紹介します。

 

坂本乙女

「坂本の仁王」と呼ばれ、身長約174cm(5尺8寸)、体重約110㎏(30貫)、薙刀馬術、琴や三味線、舞踊や和歌までこなしちゃう文武両道の超人!(もはやチートですよね)

もし現代に生きていたら「霊長類最強女子」でお馴染みレスリングのあの女性を超えてたかも・・・。

母親が亡くなった後、龍馬の母代わりとなって面倒を見ていたこともあってか龍馬はマメに手紙を送り、家族に宛てた手紙は妻お龍宛のものより多かったそうです。

 

千葉さな子(佐那、佐奈)

龍馬が江戸で入門した千葉道場の千葉定吉の娘。美人で武芸に秀でていて「千葉の鬼小町」と呼ばれていました。龍馬とは婚約していたが龍馬はお龍と結婚し約束は果たされませんでした。それでも龍馬の死後独身を貫き

、結納で仕立てたや実際に龍馬から渡されたなど諸説ありますが坂本家の家紋が入った着物を形見として大事にしていたそうです。お墓にも「坂本龍馬室(龍馬の妻)」と刻まれています。一途だったんですね・・・

 

楢崎龍(お龍)

坂本龍馬の妻。寺田屋襲撃では捕り方に囲まれている事に気付いた入浴中のお龍が裸のまま龍馬に危機を伝え窮地脱したエピソードは有名です。肝が据わっているだけではなく気も強く、女郎に売られた妹を取り返しにいき

男二人に啖呵を切って妹を連れ戻したり人斬り半次郎に一歩も退かず逆に喰ってかかった逸話もあります。そんなお龍を龍馬は「面白い女」と気に入り惹かれていったみたいです。

龍馬の死後は人間関係に苦労し少し寂しい晩年となったそうです。男尊女卑の時代ではお龍の性格を考えると生き難かったのではないかと思ってしまいます。もし時代が時代なら、もし龍馬が生きてたら、色々考えさせられる女性であることは間違いないですね。

 

■最後に

如何でしたか?激動の時代を駆け抜けた坂本龍馬はやはり幕末のスーパースターと私は思います。歴史に「もし」はありませんが、坂本龍馬が暗殺されていなければ後の西南戦争は回避できたのではないか?現在でも存在する大企業ができていたのではないか?色々と考えてしまいます。

 

凄い人物に変わりはありませんが完全無欠ではないところが当時も現在も人惹き付ける「人たらし」な魅力の一つなんだと思います。

あと、気の強い女性に惹かれるのは乙女姐さんの影響ですかね??(笑)

 

坂本龍馬のエピソードが皆さんの話の種になれば幸いです。それではまた!


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「それ本当!?」幕末有名人10人の意外な話!!

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こんばんは!れきし屋台です!


 幕末の有名人と言えば誰を思い浮かべますか?数多の人が理想や信念の為に命を燃やした動乱の時代。そんな時代だからこそ日本史に残る人物も多く、今も人気なのかもしれません。

 

今回は幕末を生きた有名人について、「やっぱり偉人も人の子なんだなぁ」と思える面白いエピソードや意外なエピソードを紹介します!

 

勝海舟

【犬が大嫌い】

幼少の頃に通学路で野良犬に股間を噛まれ生死の境をさまようトラウマを刻まれました。それは大人になっても犬を見ると怯えて震えるほどだったそうです。あり得なくはないけど「どうしてそうなった?」と思ってしまいます。

ちなみに勝さんはこの時にお玉様を一つ失っています。

 

アメリカ視察の報告で怒られた】

サンフランシスコ視察について「特に変わったことはありませんでした」と報告し「そんなことないでしょう?」と食い下がられ「アメリカは民間も政治も賢い人でした、そこのところは我が国と逆ですね!!」と言い放ち上司に超怒られたそうです。皮肉にしても言い過ぎと思いますが、当時給料の低さに拗ねてたって話もあるので勢い余って言っちゃったのかな?とも思います。

また、渡米の船内では船酔いで自室に引きこもってたとか・・・時代の荒波に乗る勝さんも海の波には弱かったんですね。

 

坂本龍馬

 

【半平太の家いったら取り敢えず立ちションする!!】

13歳までおねしょが治らなかったなんて話もある龍馬には悪癖があったそうです。

それは友人の武市半平太の家に遊びに行く度に玄関先に立ちションしてたそうです。(庭って話もあるみたいです)

半平太の奥さんは当然困る訳で、止めさせるよう半平太に訴えるがスルーされたそうです。でも「したいならトイレいけよ」くらいは思ってたかもしれませんね。他にも袴の紐を舐めながら話す不思議な癖もあったみたいです。

 

海援隊は三菱の元になった?!】

明治になり海援隊は解体されましたが、元メンバーの岩崎弥太郎設立した九十九商会が現在の三菱へと繋がっていくそうです。土佐藩主、山内容堂の家紋「三つ柏」に岩崎家の家紋「三階菱」を重ねたものが三菱の「スリーダイヤマーク」になったと言われています。

 

【婚約ブッチした】

江戸に出て来てから入門した千葉道場の娘、千葉さな子と婚約しますが(結婚してたとの話しもある)、寺田屋での襲撃の際に龍馬を助けたお龍と結婚します。さな子さんは龍馬暗殺後も独身を貫きお墓にも「龍馬の妻」と刻まれています。

 

ジョン万次郎

【頑張って稼いで仲間と日本に帰ろうとしたがボッチで帰ることになった】

漁で遭難しアメリカの捕鯨船に救助されサンフランシスコへ。ゴールドラッシュに乗り稼ぎまくってハワイで途中下船した仲間を迎えにいき日本に帰ろうとしたが仲間達は現地で家庭を持っていたので結局一人で日本に帰ってきたそうです。

万次郎「おーい!みんな!!帰国の金稼いだから国に帰ろうぜ!!」 

仲間「嫁さんいるんでハワイに居るっスわ(笑)」こんな感じですかね。

 

遭難から帰国まで11年くらい経ってるので仕方ないと言えば仕方ないのですが少し切ないですね。ちなみに万次郎さん帰国前までに1,000万円くらい稼いだそうです。

 

 

板垣退助

 【名言は言ってない?!】

「板垣死すとも自由は死せず」板垣退助と言えばこの言葉と思うほど有名ですが実際は言ってないみたいです。

暴漢に何度も刺され声も出なかった、土佐弁で「おらを殺したち自由が死ぬるかねや」と言った、「痛ぇ!医者を呼んでくれ!」と言った、など諸説あるようですが個人的には医者を呼んでくれが人間味があって好きです。

 

この言葉は板垣さんの秘書が叫んだ言葉が新聞社が板垣さんが言ったことにしたそうです。確かにそっちの方がドラマチックでカッコいいとは思いますが、何度も刺されて死ななった不死身っぷりの方が凄いと思います。

この事件以降、30年以上生きてますからね…

 

木戸孝允桂小五郎

  【最強の一手!「トイレいきたい!!」】

様々な職業、時には女装までして新撰組や見廻組の追走を振り切った桂さんも禁門の変の直後に捕まります。しかし「トイレいきたい!!(漏れる!くらいの勢いで)」と騒いで隙をついて見事逃げ切ったそうです。逃げの小五郎と呼ばれても譲れないものがあったからこそ敢えて逃げ回ったと思うと面白いエピソードでもカッコいいと思ってしまいます。

 

西郷隆盛

西郷どんのアレは近代武装級だった】

グラバー商会から強力な武器を購入し近代武装をしていた薩摩藩ですが、西郷どん股間には強力な主砲と砲弾が搭載されていたそうです。ナチュラルボーンなものではなくフィラリア感染による肥大ならしいです。

西南戦争で亡くなることになりますが、首がなくてもアレのお陰で「あ、これ西郷どんだ」と判別できたとか・・・

 

デブ専だった?!】

デブ専は言い過ぎかもしれませんが、ふくよかな女性が好みだったらしいです。好みは人それぞれなので全然良いんですが、もし西郷どんクラス偉人に「おいどんはもっとぽっちゃりしたおなごが好きでごわす!」とか言われたら男女問わずリアクションに困りますよね。

 

肖像画は弟】

西郷隆盛と断定されてる写真は現存しないそうです。肖像画については弟や従兄弟がモデルになってるみたいですが何故混ぜたのでしょうかね。

 

近藤勇

【意味不明な特技、こぶしが口に入る】

近藤勇はこぶしを丸ごと口に入れる特技を持ってたそうです。そしてかなりの大食漢だったらしく、とろろ飯を19杯も食べたなんて逸話もあります。現代のフードファイターも口を大きく開ける人が多いので大食いと口の大きさの関係が気になるところですね。

この特技については戦国武将、加藤清正も同じことができたらしく近藤さんは特技を披露しながら加藤清正のように立身出世したいと語ってたそうです。

 

その他、意外なエピソードではありませんが相当な刀マニアだったらしく暇さえあれば刀について語っていたそうです。

 

土方歳三

 【親戚にモテ自慢してた】

イケメンでモテた土方さんですが、上京してから拍車をかけてモテたそうです。それだけなら面白エピソードにならないのですが、親戚に貰ったラブレター同封でモテ自慢の手紙を俳句まで付けて送ってしまいます。内容としてはざっくり「仕事に影響出るくらいモテて困るよ~」です。

 

鬼の副長と呼ばれ厳しいイメージのある土方さんですが、幼少期にバラガキ(いわゆるヤンキー)と言われてたりモテ自慢をする一面を知ると人間味を感じますね。

 

沖田総司

【ドラマやマンガとイメージが逆?!】

沖田総司と言えば天才剣士で結核を患ったことから色白で小柄な美少年のイメージですが実は色黒で身長168~172cmくらいの当時としては長身だったそうです。

ヒラメ顔とも言われ、目が細くよく笑う愛嬌のある顔だったと言われています。

 

剣の腕前は1回の踏み込みで3回の突きを繰り出すなどマンガみたいなこと本当にやっちゃうほどの実力で、性格も敵対する人間以外には陽気に接し、子供面倒見も良かったそうです。このあたりは現代に描かれている沖田総司像と一致してると思います。

 

原田左之助

【喧嘩で本当に切腹した(笑)】

新撰組で活躍する以前、上官とケンカになり
「腹を切る作法も知らぬ下司め」と罵られた佐之助さんはキレて本当に腹切っちゃいました。もちろん生きてたら訳で、このエピソードから『死損ね左之助』とあだ名されたそうです。他にも酔っぱらって帰宅して先輩に諌められても口答えして水責めの罰受けたりとかなりやんちゃだったみたいです。

 

そんな左之助さんは意外にも愛妻家の子煩悩だったそうです。ギャップ萌えですね。

 

 

最後に・・・

如何でしたか?動乱の活躍やその後の明治の功績だけで見ると生き様が凄すぎて「雲の上の人」と感じます。凄い人達には変わりはないのですが完全無欠ではない一面を知ると親近感が湧きますよね。

 

幕末の偉人達のエピソードが皆様の話の種になれば幸いです。それではまた!

 


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