れきし屋台

歴史の面白い話や意外な話とかのお品書きです!

「え!?先生マジっすか?」勝海舟ってこんな人!!

■初めに

 こんばんは!れきし屋台です!

 

どの幕末の有名人の話にもどこかしらに名前が出てくる勝海舟

黒船来航以前に列強の技術力に危機感を抱く先見の明の持ち主であり、幕臣なので本来敵対するはずの坂本龍馬西郷隆盛に影響を与える異色の立ち位置にいた人物です。

 

諸説あるので一説での話になりますが、将軍や江戸の町の為に奔走した勝海舟の人生の軌跡をざっくりと振り返り、意外なエピソードや面白い逸話を紹介します!

 

勝海舟の人生って??(ざっくり)

誕生~9歳「トラウマ刻まれちゃったぜぃ・・」

文政6年(1823年)に旗本(将軍に御目見得できる身分)の家に生まれる。

旗本ではあったが貧しく生活は楽ではなかったが父親の人柄もあり人脈は広く、後に勝が切り札にした「焦土作戦」の際の人脈はこう言った繋がりがあったからなのかもしれません。

そして勝海舟の人生最初のビッグイベントとも言える狂犬病の野犬に襲われ生死の境をさまよいます。その時のトラウマから生涯犬嫌いとなります。(詳細後述)

 

10歳~28歳「剣術なんかしてる場合じゃねぇ!」

野犬襲撃からも無事生還した勝は剣術、禅などの修行や蘭学(オランダを通して日本に入ってきたヨーロッパの学術や技術)に励みます。

25歳の時には蘭学辞典『ドゥーフ・ハルマ』を年10両(現代の120~130万円くらい)でレンタルして1年かけて写本を2部制作。1部は自分用、もう1部は売ったそうですがレンタル代の3倍以上で金額で売れたらしいです。

 

蘭学を勉強する中で、阿片戦争後の衰退していく清国の情勢を知り「国力上げなきゃヤベぇじゃん」と考えた勝は私塾を開き蘭学兵学を教え始めます。幕府を震撼させた黒船来航の3年前から列強の脅威に備え始めた行動力と先見性は流石の勝クオリティです。

 

29歳~39歳「船の揺れは苦手でぃ・・・」

黒船来航で思春期の男子中学生の恋心並みに揺れに揺れた幕府は身分問わず様々な意見を募集します。そこで勝の「海軍作って国防しないとダメなんじゃねぇの?」との具体的な意見が注目を集め一気に役職者へとランクアップし幕政に参加します。

それからは蘭学や航海術の教育機関長崎海軍伝習所」に入門し5年間長崎で過ごし、この期間に当時の薩摩藩主である島津斉彬からも認められ薩摩とのパイプが出来たようです。

伝習所では知識面では問題がないものの、思いっきり船酔いするタイプだったらしく船の上ではポンコツだったなんて話もあります。

その後、通訳にジョン万次郎をたて視察で渡米します・・がやっぱり船上ではポンコツだったみたいです。誰にだって苦手の一つはありますよね。(あ、勝先生、犬もダメだった・・)

ちなみに視察報告の際に上官を爆ギレさせますが後述で。

 

40歳~46歳「覚悟決めてやるぜぃ!」

神戸海軍操練所設立や海軍塾を開くなど海軍興隆に奔走する勝だったが保守派の圧力や幕府内での孤立から立場が徐々に悪くなり最終的に軍艦奉行の役職を罷免(クビ)されてしまう。以降、大政奉還までは目立った動きしない勝だったが、鳥羽伏見で大敗した将軍慶喜に頼られ本気の本気を出します。

 

将軍の命を守る!江戸の民も守る!

イギリスの代表パークスに根回しをして慶喜に手を出させないようにしたり、イケイケの倒幕派を抑える為、いざと言うときは町に火を放つ捨て身の切り札「焦土作戦」を新門辰五郎らに強力を仰いで準備するなど、この時の勝海舟は決死の覚悟で西郷隆盛との会談に挑んでいたのだと思います。

結果、話はまとまり無血開城は成され慶喜も江戸の町も守り抜きました。この時の心中はどうだったのでしょうね?「うわぁ、マジ疲れた…ビール飲みてぇ」とか思ってたら面白いですね。

 

晩年は・・・

明治維新後は様々な役職を歴任するも反りが合わなかったのか辞退や短期間だけ務めたりと明治政府には深くか変わっていません。

勝海舟は脳溢血で亡くなりますが、最後の言葉はブランデーを飲み「コレデオシマイ」だったそうです。なんとも勝海舟らしい結びですね。

 

 

駆け足でしたが、勝海舟のざっくりとした軌跡でした。次に本題!(遅い?)意外な話や面白エピソードを紹介します!

 

勝海舟の意外なエピソード!!

1.犬が大嫌い

前述の幼少期に野犬に股間を噛まれ生死の境をさまようトラウマを刻まれましたが、この時に勝さんはお玉様を一つ失っています。
野犬が袴に潜り込んでガブりといかれたらしく想像するとホラーですね。
勝さんの父親は毎晩水垢離(神に祈る前に水をざっぱーん!するやつです)し回復を祈ったそうです。

 

2.アメリカ視察の報告で超怒られた

サンフランシスコ視察について「特に変わったことはありませんでした」と報告し「そんなことないでしょう?」と食い下がられアメリカは民間も政治も賢い人でした、そこのところは我が国と逆ですね!!」と言い放ち上司に超怒られたそうです。皮肉にしても言い過ぎと思いますが、当時給料の低さに拗ねてたって話もあるので勢い余って言っちゃったのかな?とも思います。
また、渡米の船内では船酔いで自室に引きこもってたとか・・・時代の荒波に乗る勝さんも海の波には弱かったんですね。

 

3.おニューの船に我慢できなくて遭難しかけた

長崎海軍伝習所の時代に出来上がったばかりのコットル船に乗りたくて堪らなくなった勝さんは教官が「天気悪いからやめた方がいいよ~」と忠告を聞かずに遠洋航海を決行。見事にフラグを回収して天候は大荒れ、船底に穴が開いて転覆しかけたそうです。無事に戻ることはできましたが、この時沈んでたら歴史が変わってました。勝さん、もう少し慎重に動いてください・・

 

 4.女好き??現代ではありえない家庭

23歳で正妻の民さんと結婚している勝さんですが、浮気に次ぐ浮気で妾(正妻ではない妻)が5人もいたそうです。伝習所時代に当時14歳のお久さん(驚愕・・)、浮気次期はバラバラですが使用人の糸さん、かねさん、米さん(どんだけ手つけるんだよ)、近所の旧幕臣の娘のとよさん(近所て・・)。
これだけでも「勝さん何やってんスか」となりますが、正妻と妾と一緒の家で暮らしていたそうです。everyday修羅場になりそうなものですが意外と穏やかだったらしく勝さんも「俺んとこは妻妾同居しても揉め事なしさぁ」なんて自慢してたみたいです。民さんの我慢があってこそだったような気もしますね。

 

 5.やっぱり妻に愛想つかされてた

妾との間に子供を作ったり、「ちょっと品川言ってくる」と嘘をついて渡米したり、とにかく破天荒な勝さんについていった民さんですが愛情からなのかは疑問が残ります。勝さんの最後の言葉は「コレデオシマイ」、その6年後に民さんも亡くなりますが最後の言葉は「勝といっしょの墓に入れないで」でした。真偽のほど本人にしかわかりません。ですが現代の感覚でいくと確かにそれだけ言われても仕方ないなぁ・・とは思います。

 

■最後に 

如何でしたか?早くから世界に目を向け多くの人達に影響を与えた勝海舟は幕末のインフルエンサーと言える人物だったのではないでしょうか。

 

視点にもよりますが、主人公と言うより名脇役のポジションから無血開城でいきなり主人公っぽくなる展開もドラマチックで良いですね!

女性関係はちょっとアレな気がしますが、それも反面教師として現代に影響を与えてくれているんだと思います。(きっと・・)

 

全然関係ありませんが、 勝海舟『人の一生には、炎の時と灰の時があり、灰の時は何をやっても上手くいかない。そんなときには何もやらぬのが一番いい。ところが小心者に限って何かをやらかして失敗する。』と言葉を残しています。

浮き沈みのある人生、落ち込んだ時にこの言葉に救われたことがあります。

 

勝海舟のエピソードが皆さんの話の種になれば幸いです。それではまた!


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