れきし屋台

歴史の面白い話や意外な話とかのお品書きです!

「え!?坂本さんマジっすか?」坂本龍馬ってこんな人!!

■初めに

こんばんは!れきし屋台です!

 

坂本龍馬をご存じですか?なんて聞くの野暮な程の知名度を誇る幕末のスーパースター。

大河ドラマになったり、アニメやマンガのキャラクターでも登場したりと坂本龍馬の人気は言うまでもないと思いますが、有名なエピソードは割りと人生の後半に偏っていることや「え!?」と感じる癖や逸話についてはあまりフォーカスされていません。 

 

諸説あるので一説の話になりますが、幕末を駆け抜けた英雄、坂本龍馬の人生の軌跡をざっくりと振り返り、意外なエピソードを紹介します!

 

坂本龍馬の人生って??(ざっくり)

 

誕生~18歳「退学になったぜよ!」

天保6年(1836年)に土佐藩郷士の家に生まれる。入学した楠山塾では優しい性格からいじめに遭い最後は抜刀騒ぎを起こして退塾。

 

19歳~「剣術習いに江戸行ってみたら衝撃受けたぜよ・・・」

北辰一刀流の千葉道場に入門。同年にペリー率いる黒船が来航する。緊急で守備任務に召集された中で黒船を見て「うっそ・・ヤバくね?黒船凄すぎぜよ・・」と衝撃を受け、海外に目を向けるきっかけになった。

 

27歳~「そうぜよ、勝海舟やっちゃおう」

土佐勤王党に加盟したものの過激さについていけなくなり脱藩。その後、尊皇攘夷(天皇大事なので異人はぶっ飛ばします)派だった龍馬は「ぶっ飛ばすぜよ!」と幕府サイドの勝海舟に対峙するも勝の海軍を作り国防を果たそうとしている考えに感銘して「弟子にしてもらっていいスか?」と結果は真逆になった。

弟子になった龍馬は気合いの金策で神戸海軍操練所の設立に貢献した。

30歳~「も~仲良くするぜよぉ~」

帰国命令をシカトして神戸海軍操練所を設立に貢献するも勝が海軍奉行を罷免(いわゆるクビ)され薩摩藩に保護される。薩摩の援助を受け亀山社中(後の海援隊)を設立。

当時やんちゃし過ぎて敵だらけになった長洲と関係が良くなかった薩摩の仲を取り持とうと会談をセッティングするも薩摩の西郷隆盛がドタキャンして失敗。

「ダメぜよ、あいつら仲良くしないぜよ・・」と思った龍馬は亀山社中を使い双方の利害関係を一致させ薩長同盟を結ぶことに成功する。

 

33歳、非情な運命・・・

薩長同盟で倒幕の流れが強くなる中で亀山社中を改称した海援隊大政奉還を進言するために出港。船中で「今後の日本について超良いアイディアがあるんぜよ!」と五ヶ条の御誓文の元にもなったと言われる船中八策を策定する。

大政奉還を成され、いよいよ時代が動く!そんな矢先の慶応3年(1867年)、33歳で暗殺により生涯の幕を閉じる。

 

駆け足でしたが、坂本龍馬のざっくりとした軌跡でした。次に本題!(遅い?)あまり登場しないエピソードの紹介です!

 

坂本龍馬の意外なエピソード

 

1.実は勝海舟を斬るつもりで会いに行ってない??

龍馬が勝を斬り行き、説得され弟子になったと言われていますが、これは勝海舟が後に語ったことがソースになってるようです。

「本人がいってるんだから・・」と思うところはありますが勝海舟は割りと話を盛るタイプだったとも言われています。真相は当人にしか分かりませんね。

 

2.地球半周してる?!

坂本龍馬の船での移動距離はざっくり21,000kmで約地球半周分にもなるそうです。陸路の移動も合わせると地球一周分移動していとも言われています。神戸海軍操練所設立の金策薩長同盟の為に日本を駆け回った龍馬なら納得の距離かと思います。

 

3.子供の頃のあだ名はアザ(痣)

痣は殴られたときの痛々しいやつではなくホクロのことで、妻のお龍も龍馬の眉間には大きなイボがあり顔にもホクロがたくさんあったことを語っているそうです。遠縁の武市半平太とはアギ(顎)、アザ(痣)と呼び会う仲。

つまり、龍馬「おい、四角顔」半平太「なんだ?ブツブツ」ってことですね。他にも窮屈、法螺(ホラ)と呼びあってたとも言われているみたいです。龍馬「おい、偏屈石頭」半平太「なんだ?話し盛り野郎」みたいな感じですかね?取り敢えず仲良いですね。

 

4.半平太の家いったら取り敢えず立ちションする!!

13歳までおねしょが治らなかったなんて話もある龍馬には悪癖があったそうです。

それは武市半平太の家に遊びに行く度に玄関先に立ちションしてたそうです。(庭って話もあるみたいです)

半平太の奥さんは当然困る訳で「ぺーたさん、あの立ちション止めさせてよ!」と半平太に訴えたそうですが「まぁ、龍馬だからしゃーないでしょ(笑)」とスルーされたそうです。でも「したいならトイレいけよ」くらいは思ってたかもしれませんね。

 

5.日本初と言われることが多い!!

着物にブーツを履くなど常に新しいモノを取り入れる坂本龍馬ですが、日本で初めての○○した、みたいな逸話がいくつかあります。ブーツについても日本で最初に履いたのは龍馬だそうです。

他には、水虫になった日本人第一号、日本で初めてハネムーンに行った人、日本初の株式会社を設立したなんかもあります。

 

・水虫はブーツで蒸れたのと、あまりお風呂に入らなかった人らしく結果水虫になったそうですが、ちょっと眉唾かな?と個人的に思います。

・ハネムーンは寺田屋で襲撃を受け、応戦するも大怪我を負った龍馬はお龍と療養も兼ねて鹿児島に旅行したのが日本初のハネムーンと言われているそうです。

・前述の亀山社中西郷隆盛他に出資してもらって創った日本初の株式会社と言われています。

 

6.海援隊は三菱の元になった?!

明治になり海援隊は解体されましたが、元メンバーの岩崎弥太郎(海援隊の会計担当)が九十九商会を設立し、現在の三菱へと繋がっていくそうです。土佐藩主、山内容堂の家紋「三つ柏」に岩崎家の家紋「三階菱」を重ねたものが三菱の「スリーダイヤマーク」になったと言われています。

 

7.キリンビールのロゴは龍馬?!

キリンビール岩崎弥太郎トーマス・グラバーが出会ったことで生まれたビールだそうです。この二人を引き合わせたのが坂本龍馬であったことから麒麟のマークは龍と馬を表すような構図になってるようです。

 

■龍馬の関係する女性のエピソード

せっかくなので坂本龍馬に関わりの深い女性を紹介します。

 

坂本乙女

「坂本の仁王」と呼ばれ、身長約174cm(5尺8寸)、体重約110㎏(30貫)、薙刀馬術、琴や三味線、舞踊や和歌までこなしちゃう文武両道の超人!(もはやチートですよね)

もし現代に生きていたら「霊長類最強女子」でお馴染みレスリングのあの女性を超えてたかも・・・。

母親が亡くなった後、龍馬の母代わりとなって面倒を見ていたこともあってか龍馬はマメに手紙を送り、家族に宛てた手紙は妻お龍宛のものより多かったそうです。

 

千葉さな子(佐那、佐奈)

龍馬が江戸で入門した千葉道場の千葉定吉の娘。美人で武芸に秀でていて「千葉の鬼小町」と呼ばれていました。龍馬とは婚約していたが龍馬はお龍と結婚し約束は果たされませんでした。それでも龍馬の死後独身を貫き

、結納で仕立てたや実際に龍馬から渡されたなど諸説ありますが坂本家の家紋が入った着物を形見として大事にしていたそうです。お墓にも「坂本龍馬室(龍馬の妻)」と刻まれています。一途だったんですね・・・

 

楢崎龍(お龍)

坂本龍馬の妻。寺田屋襲撃では捕り方に囲まれている事に気付いた入浴中のお龍が裸のまま龍馬に危機を伝え窮地脱したエピソードは有名です。肝が据わっているだけではなく気も強く、女郎に売られた妹を取り返しにいき

男二人に啖呵を切って妹を連れ戻したり人斬り半次郎に一歩も退かず逆に喰ってかかった逸話もあります。そんなお龍を龍馬は「面白い女」と気に入り惹かれていったみたいです。

龍馬の死後は人間関係に苦労し少し寂しい晩年となったそうです。男尊女卑の時代ではお龍の性格を考えると生き難かったのではないかと思ってしまいます。もし時代が時代なら、もし龍馬が生きてたら、色々考えさせられる女性であることは間違いないですね。

 

■最後に

如何でしたか?激動の時代を駆け抜けた坂本龍馬はやはり幕末のスーパースターと私は思います。歴史に「もし」はありませんが、坂本龍馬が暗殺されていなければ後の西南戦争は回避できたのではないか?現在でも存在する大企業ができていたのではないか?色々と考えてしまいます。

 

凄い人物に変わりはありませんが完全無欠ではないところが当時も現在も人惹き付ける「人たらし」な魅力の一つなんだと思います。

あと、気の強い女性に惹かれるのは乙女姐さんの影響ですかね??(笑)

 

坂本龍馬のエピソードが皆さんの話の種になれば幸いです。それではまた!


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